3.気味の悪い体験

 ニューヨークだ。私たちが滞在した1年のあいだ,実際に危害が加えられるような怖い思いは幸い,しないで済んだ。

 ただし,私たちの知り合いで怖い思いをしたひとは結構居る。あるひとは夜,実験を済ませてふらふら街を歩いて帰っていると,突然ビル影から出て来た2人組のひとりに羽交い締めにされ,もう1人にポケットの中身のドル札を持って行かれたという。ふらふら歩いている,上背のない日本人などは恰好のターゲットになる,という話だ。用事がなくてもシャカシャカと歩かなければならんな,とそれから私も気をつけた。

 またあるひとは実際に強盗にパンチを受けてダウンして,お金を持って行かれたらしい。

 このような話はよく聞くので,私もジーンズのポケットにはいつも20ドル紙幣をふたつ折にして入れていた。「カネを出せ」と突然脅されたら,20ドルを放り投げて逃げるためだ。現ナマがないとそれこそ命をとられる・・・5ドルや10ドルでもいけない,というまことしやかな噂があったため,この20ドル札は「命の20ドル」と呼んで欠かす事はなかった。ポケットの中の折り畳まれた札はすぐにぺちゃんこになり,汗がしみて薄汚れる。放り投げても20ドルと分からなければいけないから,定期的にきれいな札と入れ替えもする。

 ある夜,近くの知り合いのところに「お呼ばれ」があり家族で歩いていると,怪しげな若い男に呼び止められた。聞くとウェストサイドに戻りたいがバス代がない。トークン(地下鉄かバスに乗るための専用硬貨)か小銭を「貸して」くれないか,と言う。それだけなら何の事はないが,ヘンなのはその男がどうもヨレヨレの黒いオーバーコートを着て,その中は何も着ていないのではないかと思わせる風体,おまけに片手をコートの内側に入れたまま,というところだ。その手の先にピストルやナイフでもあれば怖いので,私は財布からご丁寧にウェストサイドまで戻れるのに十分な小銭を出して渡してやった。男は「ありがとう」と言って受け取って立ち去っていった・・・返してくれるあてはないが。家族はこの男を怖がって,すぐ近くのアパートの入り口のガードマンと一緒に遠巻きにして見ていた。