29. 横隔膜と先生との想い出

 京都の食肉第二市場の朝は早い。医化学教室の誰もまだ研究室に来ていないような時間帯に(世間では普通の時間帯に),唯一出勤している秘書さんのところに第二市場から電話がかかってくる。「仔牛が出た」と。

 そのころ,研究室で私が入っていたチームはウシの筋肉,特に横隔膜に豊富にあるアセチルコリンレセプターのクローニングだ。成牛の横隔膜は「ハラミ」であり,商品価値があるため第二市場もあまり多くは分けてくれない。しかし,成牛では目的タンパクの含量が少ないことが研究するにつれて分かり,仔牛,しかも胎仔ウシの横隔膜にレセプターのmRNAが多いことが分かって来た。第二市場にお願いして,そのような試料が入手できたら研究室に電話してくれるよう頼んでいたのだ。

 朝早く,と言っても9時ごろだが,秘書さんから下宿に電話がかかってくる。第二市場まで受け取りに行くのは私の役目だからだ。京都駅からさらに南のほうにある市場までTさんのクルマを借りて取りに行く。その頃,どうしても,新しく見つけたアセチルコリンレセプターのサブユニットが胎仔ウシの発達中にどのように発現量が変化するか調べたいがため,何度も何度も出向いて試料をもらって帰ってはmRNAにしてノザンをしていた。

 しばらく研究を進めて行くうちに,第二市場で入手できるのは妊娠後期の胎仔に限られる,という制約があることに気がつく。すると先生はいろいろな知り合いを調べ,ドイツなら初期の胎仔ウシでも入手できる,という情報を得た。さっそく共同研究先に頼んで発達初期の仔ウシの横隔膜をせんべいのようにして凍らせてアルミ箔に包んで,空輸してもらうことになった。伊丹空港まで取りに行くのは私の役目だ。大阪中央郵便局のみならず,伊丹にも(幸い明るいうちに)何度か行った。

 到着便を教えてもらって伊丹空港の貨物ターミナルで通関されるのを待つ。予め通関業者にその旨話してあるからまあ安心だが,荷物が無事にドライアイス詰めの凍った状態で出てくるか,受け取るまで気が気でない。足りなければ継ぎ足すためのドライアイスも持参している。行きは発砲スチロールのデカい箱にドライアイスを詰めて京都駅南口から出る空港リムジンバスで行く。帰りはもうひとつ,発砲スチロールの箱を余計に抱えてバスで帰る。

 ある伊丹行きの帰り,ちょうど外国出張から帰られた先生が,一緒のバスに乗り込んで来られた。先生の帰国の日,と予め秘書さんに教えられていたから,ひょっとして,とは思っていた。すかさず私は「先生,おつかれさまです。」と言う。

 先生は私を見つけて『ああ,高井さんか』と言われ,大きな箱をふたつも抱えた私の,通路を隔てた隣に座られた。私が横隔膜の受け取りを無事に済ませて帰るところであることを告げると,外国出張帰りの疲れも見せず意外に上機嫌で,出張中のことなどをいろいろ帰る道すがら,話された。このとき初めて,先生の雑談に付き合ったが,何を話されたかは残念ながらよく覚えていない。