東北大学 加齢医学研究所 加齢制御研究部門 基礎加齢研究分野(堀内研究室)

医学系研究科協力講座、歯学研究科協力講座(口腔腫瘍制御学講座)

Department of Molecular and Cellular Biology, Institute of Development, Aging and Cancer, Tohoku University

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子供の時からディスカッション

堀内 久徳 『第124回加齢研教授リレーブログ』より

教育ということでは、小さい時の教育がより重要だと思う。赤ちゃんはミルクやおむつ交換を要求したときの周囲のレスポンスを学習して自分の行動を修正しているように見える。

幼児期、友達や兄弟とけんかをして泣きわめいているときの対応が重要だ。自分の状況と泣いている理屈や言い分を冷静に周囲に伝えるという訓練は、大人になってから大きく効く。感情を抑えて自分をコントロールして、しかも状況を判断して、論理だった説明をする学習である。泣きわめいている子供ににっこり笑って、じっくりとゆっくりと話を聞いてあげたいものだ。

小学校、中学校あたりでは、知識を増やして、課題に対する考え方について理解することが求められる。しかし、大人(あるいは科学者)になって重要なのは、知識と思考法をベースとしつつ、見えない重要点を見抜いて、自分からそのことについて解決策を考え始めるというプロセスを身につけることだ。

写真は、約25年前のドイツ留学中のものである。長男ののんと幼稚園のともだちのタニヤが次にどんな遊びをするかディスカッションしているように見える。人生についてディベートしているのかもかもしれない。このロジックの国では小さい頃から理詰めの議論をする。大人は目線を下げて理詰めで子供を諭す。子供の頃からの言葉のやりとりはすでに立派な社会教育であり、ドイツ人の理詰めの国民性の形成に大きく寄与している。その頃、体格はほぼ同じであったのんとタニヤであるが、いまでは体格に大きな差がある。弟のマークの身長は190 cmを超している。国民性も体格も、大人になればどんどん個性的になる。

ディスカッション


パイナップルはバナナの仲間?

堀内 久徳 『第98回加齢研教授リレーブログ』より

私たちの研究室は、武骨なもので、これまで研究所の交流会には酒しか持ってきたことがなかった。芋煮やお好み焼きなど、名物料理を作ってくださる研究室に憧れを持っていた。最近、近所のスーパーにパイナップルが売られていることがあり、ときどき、食していた。これが甘くてなかなかいける。そこで、パイナップルを出してみようと考えた。1月の交流会では、8個のパイナップルを準備した。はじめはほとんど興味を持ってもらえず、若干がっかり気味だったが、後半では少しずつ食べていただき、食べた方には甘くてうまいと言っていただいた。パイナップルを私たちの研究室の名物にしようと決めた。

パイナップルは、英語圏以外では、アナナ、あるいはアナナスである。はじめにbをつければバナナである。ついている葉っぱは細長くとんがっていて、イメージはバナナの親戚である。そのため私はパイナップルは熱帯の高い木の上になるものとずっと思っていた。しかし、なんと、パイナップルは、イチゴやスイカのような草だったのである。これを知った時には驚いた。同時に私がこのことを知らなかったことを知った周りのみんなも驚いていた。

パイナップル


白夜のうらがわ

堀内 久徳 『第83回加齢研教授リレーブログ』より

EMBLという国際的な研究所に留学していたおかげで、いろいろなところに友達がいる。ある年のクリスマスにノルウェーのオスロにHaraldを訪ねた。夏の白夜の裏側である。行ってみて初めてそのすさまじさに驚いた。朝の8時は真っ暗。10時にうっすらと明るくなり、12時、大きな赤くて弱い太陽がふわーっと南の空に浮き上がる。計算上高さは7度である。14時、太陽が沈み真っ暗な世界になる。雪と氷の道をムンク美術館に行った。「叫び」はこの暗闇をなんとかしてくれ、という叫びに見える。帰り道、そこここで子供たちがスケートでキャキャキャキャと短い昼を楽しんでいた。ディナー。たらの水酸化ナトリウム漬けが名物とのこと、しかしHaraldは初心者はやめておけとオーダーさせてくれなかった。土産はトロール人形。印象深く帰路についた。


失敗だらけの人生だ!

堀内 久徳 『第66回加齢研教授リレーブログ』より

思えばずいぶん勝手なことをしてきた。子供の頃から今に至るまで漬け物が嫌いだ。奈良県出身なのに奈良漬けは見たくもない。両親は笑って何も言わなかった。学生時代サッカーで鍛えた脚力への過信からぶっつけでホノルルマラソンを走った。しかもゴールイン直後に横の公園で子供らとサッカーをした。翌日から2-3ヶ月歩けた状態ではなかった。ばかとしか言いようがない。

ほとんどが卒業後すぐに大学の医局に入局した時代、飛び出して天理よろづ相談所病院でレジデントをした。2年後、心臓の侵襲的治療では我が国のパイオニア的な病院である小倉記念病院循環器科にそのまま移った。そして当時、部長の延吉正清先生に、おまえに適う上司としては、とのお勧めに従って卒後6年目に、脂質代謝のエキスパートの北徹教授の京大大学院老年科大学院に入学した。当時の私の興味は、冠動脈バルーン拡張療法後の再狭窄、即ち平滑筋細胞増殖であり、脂質代謝にあまり興味を持てなかった。北先生はそれならと、大学院2-4年は神戸大学生化学教室、高井義美先生の教室に里子に出して頂いた。高井先生の教室での細胞内情報伝達に関する研究で北先生に学位を頂いた。大学院後、すぐ留学してはということで、欧州分子生物学研究所でエンドサイトーシスを研究するZerial博士を考えた。北先生には、当初、臨床医のおまえがなぜエンドサイトーシスかということであったが、Zerial博士が来日され直接お話しされたあとには、なぜすぐ留学しないのか?となった。3年の留学のあと、京大病院老年科のスタッフとして帰国し研究室を持たせていただいた。高井先生やZerial博士はすでにエスタブリッシュされており、両先生方とはすこし異なる研究をしたかった。教室のテーマである動脈硬化について研究を始め、3年ほどして論文も出始めた。しかし、二人の大学院生がともに新婚旅行と、ヨーロッパの学会参加のために出払い、私が風邪で寝込んだ時に、ベッドの中でこのまま続けても限界があると考えた。みんながそろったとき、ごめん、これまでのテーマを総流しにしようと宣言した。みんなは許してくれ、北先生も何も言われなかった。その後、高井先生やZerial博士のテーマに若干近づけ、活性化血小板の分子機構の研究を行い、その後、抗血小板療法の効果評価の臨床研究にまで手を広げ、運良く軌道に乗った。数々のわがままや失敗をよく許していただき、育てていただいたと、周りの皆様、特に北先生には感謝しかない。


血小板に辿りつくまで~研究四方山話

堀内久徳 『血栓止血誌21(5):519~522, 2010』より

私は、血栓止血の研究をはじめから目指していたのではなく、また、留学中も全く畑違いの分野だった。サイエンスの世界でのsurviveのため、もがいて、たどり着いたのが血小板の研究分野だった。一からのスタートであったが、血栓止血学会の先生方にはこれまで本当によくしていただいてきた。舞台裏を明かすようで若干気恥ずかしいが、また、はじめから血栓止血学の分野の研究者を目指してこうこうしたというようなスマートさに欠けるが、反面教師的にでもこれから研究を志されようとする若い先生方の参考になればと考え、血小板にたどり着くまでの紆余曲折を書かせていただく。

  1. 大学院まで

    私は、昭和59年京都大学医学部卒で、学生時代はサッカーばかりしていた。卒業後は、臨床医を目指し、研究は頭になかった。初期研修は、天理よろづ相談所病院でレジデントとして2年間で内科、外科、麻科等の研修を行い、その後、大学のサッカー部の先輩であった木村剛先生(現、京大循環器内科教授)のお勧めもあり、社会保険小倉記念病院循環器科に移り、循環器内科の研修を3年間修めた。小倉記念病院循環器科は、延吉正清先生(現、院長)が部長の冠動脈インターベンション(PTCA)では日本で有数の病院であり、私もカテーテル検査を数多く行った。当時は、PTCA後の再狭窄が最大のテーマであり、木村先生と、久留米大学の病理学教室出身で、近所で開業されておられた大石弘人先生が病理チームを作って研究しておられ、私もそのチームに加えていただいた。3年間過ごした小倉で、2度、除夜の鐘を木村先生と一緒に剖検室で聞いたのは、今となっては懐かしい思い出である。そして、延吉先生に大学院に入学して再狭窄の研究をしたいとご相談したとき、ご推薦いただいたのが第3内科(現、循環器内科)出身で老年科の教授になられたばかりの北徹先生の教室だった。北先生は、お会いしたことがなく、コレステロールの研究で有名であったが、再狭窄の研究はしておられなかった。しかし、動脈硬化、血管ということで、‘一緒か!’と考え、進学させていただいた。

  2. 大学院時代

    平成元年、大学院1年生、ずいぶん勝手な学生であった。北先生には申し訳なかったが、コレステロールへの興味より、再狭窄、即ち、血管平滑筋細胞への興味が強く、そちらばかりを一人で追いかけた。研究手法も知らないのに、まったく徒手空拳で、無謀にも向かっていた。そういう私を北先生は、考えるままに進めと許可していただいた。どのように失敗していくのだろうと、暖かく見守って下さっていたのだろう。まだ、北先生がそれほど忙しくなかった時期でもあり、しばしば飲みに連れて行っていただき、如何に本質に迫るのか、どういう研究が良い研究で、どういう所を目指すのかとお教えいただいた。大学院1年目の秋、日本癌学会学術集会のレベルが高いと教えてくれた友人がいて、3日間名古屋まで通った。そこで、神戸大学医学部生化学教室(高井義美先生)の低分子量GTP結合蛋白質に関するいくつかの発表をまとめて聞き、大きな興味を持った。北先生も以前、高井先生のところに勉強に行くものはいないか、と言われていたことを思い出し、北先生とご相談し、大学院2年生から、お世話になることになった。高井先生は、若い頃にPKCを発見され、また、その頃も多くの蛋白質を独自に同定されていた。北先生には、自分の分子がとれれば、priorityと独創性を持って研究を進めることができると、北先生には「ものとり」を勉強してくるようにと送り出していただいた。

    家族で神戸に移り住んで、高井先生の教室では、低分子量GTP結合蛋白質を介した細胞内情報伝達について3年間研究に従事し、生化学を教わった。今では、Rhoと言えば多くの研究者がいるが、1990年当時は余り知られていなかった。高井先生には、あと10年もすれば、多くの研究者がRhoやRabに注目しているはずだ、サイエンスは追っかけず、向こうから来てもらうものだと言っておられた。

  3. 留学

    北先生のお薦めもあり、大学院の後は、海外留学する事にした。留学先は自分で決めることになっていた。留学後に日本で続けられる研究テーマにするのが最もスムーズに行く。テーマの他にもボスの人柄、ビッグネーム度、資金力、研究の将来性、研究室の雰囲気などいくつもの考慮すべきファクターがある。すべてを満たすのは無理であり、どこかでエイッと決断しなければならない。私は、このテーマ選択の原則を外して、大学院のテーマをそのまま続けるべくテーマを選択することにした。なぜなら、基礎の研究キャリアは、大学院での3?4年と短いが、留学するなら、世界の最先端で自分の力を試してみたかったからである。その頃の高井研で教えていただいた低分子量GTP結合蛋白質の生化学であれば、十分世界に通用すると感じたからである。そのころ(1992-1993年頃)は、まだ、哺乳類ではRasのエフェクターすら同定されていなかった。低分子量GTP結合蛋白質の大きなサブファミリーとして、細胞増殖に重要なRas、細胞骨格に重要なRho、細胞内小胞輸送に重要なRab等がある。その中で、Rasの作用メカニズムを見出すことに世界中で超一流ラボがそのしのぎを削っており、そこに身を置いても後塵を拝することになることを恐れ、Rasは避けた。実際、Rasのエフェクターは、留学後1年ほどして発表された。Rhoにも大きな興味があったが、高井先生や京都大学医学研究科の成宮周先生が、長くまた精力的に研究を続けておられ、また、海外でこれこそという研究室を見いだせなかった。Rabは、細胞生物学的な重要性にもかかわらずまだ不明な点が多く残されており、また、まだ余り研究が進んでいなかったRabを選択した。

    論文を見ていて、欧州分子生物学研究所(EMBL)細胞生物学部門のMarino Zerial博士に、よい印象を持つようになった。EMBLは、欧州の国々が資金を出しあって運営している国際的な研究機関であり、ハイデルベルクという美しい街も魅力的だった。Marinoは、私より年が一つ上(当時34歳)のイタリア人である。今では、Marinoは、細胞内輸送研究の世界のリーダーの一人となり、現在Max Planc研究所(Molecular Cell Biology and Genetics, Dresden)のDirectorを務めているが、当時は、トップジャーナルに2?3報の論文がある程度の自分のグループを持って間もない研究者であった。少ないポスドクが、成果を上げなければ自分がつぶれるわけであるから、必死になってくれるであろうと読んだ。Marinoについて高井先生や当時高井研の助教授であった貝淵弘三先生(現、名古屋大学)にお聞きすると評判もよかった。しかし、北先生にご相談すると、「なぜおまえがエンドサイトーシスの研究なのか」とのことであった。私が大学院4年生の夏にMarinoが来日する機会があり、講演を聞かれ、直接お話しされたすぐ後には、Marinoを高く評価されたのであろう、「なぜおまえはすぐに留学しないのか」とお話があった。MarinoはMarinoで、蛋白質を扱える研究者の参加を切望しており、定員いっぱいの所を、離れた部屋にデスクを借りてくれた。このようにして、私は大学院を卒業してすぐにEMBLに留学することになった。国際的で、活発かつ楽しい雰囲気の中、3年あまり充実した研究生活を送れ、それなりに成果も得られた。友人も多くでき、家族もhappyであった。テーマがエンドサイトーシスであり、臨床教室に着任してどれほど直接役に立ったかというところはあるが、多くのことが得られ、EMBLでのポスドク時代は人生の中での一つの彩りとなった。

  4. 京都大学で

    1996年秋、海外留学を終えて、京大病院老年科に助手として職をいただいた。研究者としては、自分の研究を始めることができるということであり、ラッキーである。そこで、意気揚々と研究を始めた。高井先生が、「自分の研究テーマを決めるまで実験を始めるな、半年でも考えた方が、結局、早い」というアドバイスを下さった。実験に取りかかると、後に続かないテーマでも、2?3年はかかってしまうので、十分発展性のあるテーマに行き当たるまでは、じっと考えた方が良いということであった。しかし、私は不肖の弟子であり、この教えは守れなかった。

    当時、北教室では、動脈硬化の成因・治療の関する研究が進められていた。私もその中で貢献したいと考えた。しかし、高井先生にしても、Marinoにしても、GTP結合蛋白質の分野でEstablishしており、自分としては異なる分野で研究を進めたいと考えた。北先生には、大学院1年生の西岡宏晶君と一緒に研究を始めるようにしてくださった。いろいろ考え、よし、やってやろう、と酸化LDLに関連した研究を始めた。西岡君は、2年ほどでFEBS Letterに一報論文を出すことができたがしっくり来ない。大きな発展性を見いだせなかった。分子から入るか、疾患・生理機能から入るか、臨床に立脚すればたとえ分子生物学、細胞生物学的な内容としても疾患・生理機能から入る方が、スムーズに行く。しかし、自分に研究のpriorityのある分子を持っていなければ、他の研究者の後追い研究になる危険性は否めない。そして、所属しているのは内科であり、動脈硬化を中心とする研究室である。そのポジションとも折り合いをつけなければならない。論文をサーチし、Radという糖尿病の筋肉で発現が増加している新規GTP結合蛋白質が報告されてまだまもなくであり、Radから入るのも良しか、と考えた。しかし、リコンビナントRadを作成して、結合蛋白質を取って、Radの機能を明らかにしてやろうと、研究を開始した。しかし、クローニングに手間取り、また、クローニングできても大腸菌が、ほとんどこのRad蛋白質を作成してくれなかった。そのため、いろいろな工夫を凝らしたが、時間を食うばかりだった。

    ちょうどそのころ、帰国後2年半ほど経った、1999年の秋だったか、Marinoが日本生化学会に招待され、その後、2?3日京都や奈良を案内した。そのとき私の研究のことも聞いてくれ、このままではHisanoriはsurviveできない、留学中に使っていたstreptolysin-Oをドイツから取りよせて、形質膜透過型細胞を使ったアッセイを組み立てたら何とかなるのではないか、とsuggestionしてくれた。

    私の研究グループは、西岡君が上級生となり、吉岡亮君が私のグループに参加して1年、また、京大農学部の学生であった白川龍太郎君がグループに参加して、大学院生と同じ内容の研究を行うようになっていた(学部学生でもモチベーションがあれば十分に本格的な研究は可能である)。Marinoとの話しから数ヶ月が経っていたが、西岡君の海外留学先候補の視察をかねてのイタリアの学会参加と、吉岡先生の新婚旅行が重なった週に、私は風邪をひいて寝込んでしまった。風邪の治りかけに、研究に関して、ゆっくりと考えて、「今の研究は総流しにして、Marinoが言うようにstreptolysin-Oを用いて、血管内皮細胞の研究をしよう」と決めた。これまでの得意分野を生かして、フォンヴィルブランド因子を含むWeibel-Palade bodyの輸送メカニズムの研究にまずフォーカスしようと考えた。研究室にみんながそろったときにミーティングをもって、エイッとストレートに、研究プロジェクトのリセットについて話した。現状では1つか2つ論文が出るかも知れないが、危機にあると、そのため、最後のチャンスとして、内皮細胞の研究を、streptolysin-Oを用いて展開すると、みんなに伝えた。これまでの研究の準備をすべて捨てるということなので、みんな狐につままれた顔つきだったが、大きな異論がなく救われた。北先生には何も言われなかったが、最後のチャンスだぞと、思われていたであろう。内皮細胞の培養、streptolysin-Oでの条件設定、アッセイのためのコンストラクトの構築等、手分けして、プロジェクトの準備にかかった。内皮細胞は、streptolysin-Oで形質膜に穴を開けるのが困難であった。そして、コンストラクトが完成し、Weibel-Palade bodyにその標識蛋白質が局在し、動きを追跡できるかをチェックした。結果は、disappointedであった。試みたことすべてうまくいかなかった。しかし、血管内皮細胞と血小板は多くの重要因子を共有している。そのため、streptolysin-Oで血小板の形質膜に穴を開け、カルシウムで刺激してフォンヴィルブランド因子の放出を見てみると、幸運にも開口放出をdetectできているようであった。とっかかりができれば後は改良はそれほど難しくない。改良を重ねて、アッセイ系として確立して、いくつかの関与因子を見出すことができた。その後は、透過型血小板を用いた凝集アッセイも構築でき、順調に進んだ。さらに、臨床での血小板のもっともmissingなところは効果モニター法がないことと考え、2003年の秋頃からは抗血小板薬の効果の解析を始めた。大学院を卒業して留学を控えていた田淵新君と、実験助手として加わってくれた検査技師の資格を持つ高橋可奈子さんがその礎を築いてくれた。この臨床研究は、初期の頃はあまり注目されなかったが、徐々に注目度が上がってきた。降圧剤は血圧を指標に、スタチンはコレステロール値を指標に容量調整するが、研究の発展によっては、効果をモニターしながら抗血小板薬を用いる時代が来るかも知れない。

  5. ふりかえって

    振り返れば、スマートさに欠けながら、ただただ、前を向いてあっちに行ったりこっちに行ったりして、進んできたものと思う。北先生、高井先生、Marinoをはじめ、多くの先生方に暖かく見守っていただき大学院入学以来20年年間研究を続けて来ることができ、幸運であったと思う。良き同僚や研究室のメンバーにも恵まれ、家族もよく支えてくれた。この場を借りて感謝を現したい。2010年春より、東北大学加齢医学研究所にポジションを得て、基礎研究を進めることとなった。しっかりと考え、何か面白いことを一つでも残せればと思っている。


基礎研究に打ち込んだ学生時代

堀内研OB 宍倉匡祐 『東北大学医学部学生後援会会報2016.3発行』より

東北大学には研究に対して強い意欲を持った学生を支援してくださる研究室がたくさんあります。私はその中で、東北大学加齢医学研究所基礎加齢分野、堀内久徳教授のもとで2013年(医学部5年次)の夏からお世話になり、その成果が論文として薬理学のトップジャーナルであるBritish Journal of Pharmacologyに2015年10月に採択されました。大変うれしく、また、後輩の皆さんの参考になればと、そのプロセスを記させて頂きます。

大学入学時から私は基礎研究者志望でしたが5年生という将来の方向性を強く意識する学年になり、夢に向かって具体的に自分がどうしたらいいのか把握していないことに気づきました。そこで、具体的な将来のビジョンを獲得するために、まず、実験してみたいと、多くの学生が実験を楽しんでいると聞いていた堀内教授の研究室の門をたたきました。当初、分子生物学的手法を修得したいとも考えていましたが、お話ししていると、堀内教授は新しい白血球の研究分野を始められたいとのことであり、私はその立ち上げにトライさせて頂くことになりました。誰かの研究のお手伝いではなく、幸運なことに、最初から自分で責任をもって実験を行うことができました。実験をする中でやはり思い通りにいかないことがたくさんあります。しかし、面白い結果が出たときは言い表せないくらい楽しい気持ちになるためモチベーションを保ちながら続けることができ、放課後はもちろん休日も頑張りました。研究所共通機器室の数千万円もする顕微鏡を頻用したのですが、予約を取り合ったのも今となってはいい思い出です。

さて、結構データが集積して、論文にできる可能性が出てきたので、論文化に向かうことにしました。いざ、まとめるとなると、データが多いだけではだめで、すきなく、まとまった結論を導き出さなくてはなりませんでした。今から思えばほとんどデータがそろったと思っても今から思えば半分にも満ちていなかったように思います。成果を少しずつ積み重ねて国家試験の勉強もそっちのけで、なんとか国家試験1か月前に論文を投稿することができました。今思うと大胆なことをしていたと思います。論文は掲載までに科学雑誌に投稿したのち、その複数の審査員(reviewer)の修正意見をEditorが評価し、追加で実験などによってしっかり答えてEditorが採択という判断をすれば掲載となります。一回目に出した科学雑誌の審査結果はrejectでした。あらがっても無理だと判断し、雑誌を換えることにしました。私の研究内容は、薬理学的な手法が多かったので薬理学の雑誌に挑戦することにしました。3名の審査員は多くの条件を出しましたが、最終判断するeditorの評価は良好出あり、粘ることにしました。国家試験も終わり2015年2月、人生最後の春休みで旅行に行きたい気持ちもありましたが、どうせ最後の春休みなのだから将来のためにと割り切り実験しました。この辛い時期に堀内教授を中心とする研究室の先生方に論文の執筆や実験のアドバイスなどで多大なるご支援をいただきました。それでも、学生の期間中に終わる量ではなく卒業後は後輩たちに主に実験を引き継ぎ、3回という通常よりも多くの修正の後、投稿から8か月後の10月に何とか掲載が決まりました。最終決定が来るまではわくわくしたり、不用意に焦ってみたりで大変でしたが、採択通知が来たときはこれまでの人生で一番嬉しかった瞬間です。採択後に表情が柔和になったと皆に言われ、いろんな意味で集中していたのだと思いました。このように私はこの基礎研究を通して多くのことを学び、かけがえのない経験をすることができました。他にも東北大学には研究に対して意欲のある学生を支援してくださる研究室がたくさんあります。この恵まれた環境のもと、多くの後輩たちにも研究にチャレンジしていただきたいと思います。


開口放出異常症としての家族性血球貪食症候群 (FHL)

堀内 久徳『文部科学省新学術領域研究「細胞内ロジスティクス」ニュースレター(2011. 春発行)』より 詳細はこちら


大震災に遭遇して:研究室周辺からの体験談

堀内 久徳『日本血栓止血誌、22, 266-269, 2011』より 詳細はこちら